何も映っていなかった絵画の意味とは
さなちゃんが映った絵画
さなちゃんによる、家族や友達とのかかわりが無くなって透明人間のようになったという回想があったと、4枚のさなちゃんが映った絵画が描写されました。
- 白い家族連れの近くをさなちゃんが通る「家族になれなかった」
- 白い友達たちの間にさなちゃんが佇む「友達にはなれなかった」
- 白い親子連れをさなちゃんが見つめる「親子にはなれなかった」
- 白い人々の間でさなちゃんが立ち尽くす「私にはなれなかった」
これらです。
「私にはなれなかった」という題名、さなちゃんが描かれていること、さなちゃんの回想の延長にあること、これらのことからこの絵画のタイトルは、さなちゃん視点のものと言えるでしょう。
私は、家族になれなかった。
私は、友達にはなれなかった。
私は、親子にはなれなかった。
私は、私にはなれなかった。
現実世界では何にもなることができませんでした。
そのため、一人ぼっちの最果てで生きていくつもりだったのでしょう。
放送休止が映った絵画
上記のシーンの後、ノイズが走って一瞬だけ絵画が映されます。
描写されているのは放送休止。
そしてタイトルは、「お母さん」。
さなちゃんは母親とともに二葉家にやってきた存在で、血の繋がりがあるのも母親だけです。
つまり、家族として自分を気にかけてくれる可能性が少しでもあるのは母親だけなのではないでしょうか。
何も映っていない絵画
いろはちゃんがさなちゃんを迎えにきた後、3枚の何も映っていない絵画が間を置いて画面に現れます。
- 「もしあの人も、私を探していたら」
- 「もしあの人も、心配していたら」
- 「もしあの人が涙を流していたら」
これらの絵画に対する説明はありません。
しかし、ここまで読んでくださればもうお判りでしょう。
これらのセリフはさなちゃんからさなちゃんの母親に向けられたものです。
何も映っていない絵画の題名が意味するものとは
二葉家の娘ではないさなちゃんも、さなちゃんの母親の娘ではあります。
母親は娘が突然何日もいなくなったら、多くの場合はどうするでしょうか。
何かしらの形で心配するのが多いと思います。
さなちゃんも現状失踪中です。
さなちゃんはいろはちゃんが来たことでひとりぼっちの最果てから出られるという選択肢を突き付けられ、ひとりぼっちの最果てにずっといることが、母親に心配されいるのではという考えが芽生えたのではないでしょうか。
心配されているかもしれない、でも心配されていなかったらどうしよう。
そんな不安が頭を巡って、だったら心配されているかどうか確認できなくていい、という思考も生まれたんじゃないでしょうか。
そんな不安の表れが、何も映っていない絵画の題名に現れていたのだと思います。
私がいなくなって、もし母親も、私を探していたら、どうしよう。
私がいなくなって、もし母親も、心配していたら、どうしよう。
私がいなくなって、もし母親が涙を流していたら、どうしよう。
実際に母親がどう思っているのかはゲーム内のメインストーリーでも描写されているので、そのうちアニメでもやると思います。
まとめ
絵画の題名は全部さなちゃんの言葉で、何も映っていない絵画の題名はさなちゃんから母親へ向けたものだと思います。
彼女の母親が彼女のことをどう思っていようとも、これからはいろはちゃんが導いてくれるでしょう。